大阪大学
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授業レポート

2018年12月26日(水) 公開

「リテラシーD:映画で学ぶ社会の見方」一般公開 参加レポート
深田晃司監督の社会の見方:フィクションのなかの社会/社会のなかのフィクション
COデザインセンター開講科目<リテラシー>

 近年、大学教育のなかで「社会課題に取り組もう」というものがトレンドのように増えてきています。ここには大阪大学も含まれています。私たちがこれをトレンドで済ますことなく、実質的かつ有効な仕方で自分たちの学びにするためには、どんな努力と工夫が必要なのでしょうか。それはまず、私たちが生きているこの「社会」とは何か、そこで「課題」と呼ばれているものは何なのかをしっかりとつかむことだと考えます。

 本企画は映画を通してそのことを学ぼうというものです。第一弾ではドキュメンタリー作家の想田和弘監督に来ていただきました(第一弾のレポートはこちらをご覧ください)。今回はフィクション映画の監督として第一線で活躍されている深田晃司監督をお招きします。フィクション映画であっても、そこで登場する人物たちと彼らが紡ぐ物語は、彼らが投げ込まれている社会との関係性ぬきに捉えることはできません。

本企画は、2018年7月20日、COデザインセンターが「リテラシー」として提供する授業「リテラシーD:映画で学ぶ社会の見方」の一般公開として行われました。


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 中学生や高校生のときから映画ばかり観ていた、と話す深田晃司 監督。大学2年生のときに映画美学校に通い始め、学校を出てすぐに映画を撮りはじめたそうです。


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深田 晃司

作品:
『歓待』(2010年)
▶ 第23回東京国際映画祭日本映画「ある視点」部門作品賞
▶ 第15回プチョン国際ファンタスティック映画祭最優秀アジア映画賞、
▶ 第3回TAMA映画賞 - 最優秀新進監督賞

『ほとりの朔子』(2013年)
▶ 第35回ナント三大陸映画祭グランプリ金の気球賞 & 若い審査員賞
▶ 第17回タリンブラックナイト映画祭最優秀監督賞
▶ 第28回フリブール国際映画祭タレントテープアワード

『さようなら』(2015年)
▶ FILMADRID マドリッド国際映画祭ディアス・デ・シネ最優秀作品賞

『淵に立つ』(2016年)
▶ 第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞
▶ 『エル』シネマ大賞 2016 ベストディレクター賞
▶ 第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞

『海を駆ける』(2018年)

ほか多数


 深田監督と、「今日は『深田監督』と呼びますが、日頃は『深田』と呼んでいるんですよ。」と言う平田オリザ COデザインセンター特任教授(劇作家)が、今回の話し手です。

 深田監督は、ある日、平田さんがつくった青年団の作品を観て、「今まで自分が見てきた演劇と全然違う。」と感じたそうです。舞台上で役者が淡々と、あたかも本音がそこにあるように話し、しかしそれが本音かどうかは分からない、分からないまま探っていくしかない、という作品に惹かれたと深田監督は話しました。


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 本企画は、深田監督の作品『さようなら』を鑑賞したあと、参加者からの質問にお二人がこたえる形で進行されました。映画・演劇教育から、お二人が常々どのように作品をつくろうとしているかということまで、様々な話題があがりました。


『さようなら』(2015年)

平田オリザ教授と石黒浩大阪大学教授が共同で進める、人間とアンドロイドが舞台上で共演する演劇プロジェクトの作品を深田監督が映画化。

あらすじ:
放射能に侵された近未来の日本。各国と提携して敷かれた計画的避難体制のもと国民は、国外へと次々と避難していく。その光景をよそに、避難優先順位下位の為に取り残された外国人の難民、ターニャ。そして幼いころから病弱な彼女をサポートするアンドロイドのレオナ。やがて、ほとんどの人々が消えていく中、遂にターニャはレオナに見守られながら最期の時を迎えることになる・・・・・。

『さようなら』ウェブサイトはこちらをご覧ください。


 ここでは、参加者からの質問とそれに対するお二人のこたえについて、いくつかを紹介します。


「『さようなら』を観て、とても暗い印象を持ちました。その点について教えてください。」


深田監督:
 平田さんがつくられた舞台であり、原作である『さようなら』を観たときに、私が一番惹きつけられたのは、ものすごく死を感じる、ということでした。人間が何千年も、表現の中で何を描いてきたかというと、やはり人間にとって揺るぎないもの、死ぬということだと思います。人間にとって死は最も不可解で不可避なものであり、演劇でも、絵画でも、小説でも、繰り返し死を描いてきた。『さようなら』を観たときに、死ぬことのないアンドロイドと死んでいく人間を対比する、これが芸術の最先端の表現だと感じました。それで、『さようなら』を映画にするときに、これを死を扱うひとつの形にできないか、と思いました。それが私の意識の中にあり、このような作品になったのかもしれません。


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「社会問題を扱う作品は、どうしても説明しすぎてしまう部分があると思います。その点で、深田監督の作品は、あえて余白を残してつくっていらっしゃるのかなと思いました。その点についてお聞かせください。」


深田監督:
 作品における社会問題への向き合い方は、作り手によって違うと思います。私自身が映画をつくるときに意識しているのは、何かにカメラを向けるときには、あらゆるものに私たちが生きる社会の問題が含まれているということです。他愛ないエピソードを描いているようでいて、そのことと社会問題とが地続きだという世界観で作品を作りたいと考えています。

 余白を残すというのはすごく難しい。うまくいったりうまくいかなかったりするのですが、なるべく、観る人によって見方が別れたり、観ている人の考え方があぶりだされたりする映画を作りたい、と思っています。

 映画は、プロパガンダとして利用されてきたという歴史があります。意識的に映画をプロパガンダに利用したのはナチスドイツで、いかにナチスが素晴らしいかということを大衆に伝えるために映画を用いました。ナチスだけではありません。アメリカも、日本も、プロパガンダ映画をたくさん作っていました。そういった歴史を経て、今私たちが映画をつくろうというときに、表現におけるプロパガンダ性には距離をおかないといけないと考えています。それは戦争というものだけではなく、例えば家族ということをひとつとっても、プロパガンダになりうると思うのです。お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいるということを一つの家族のフォーマットとして示す、というようなこともプロパガンダだと思うので、そこからいかに距離を取るか。見ている人にとっていろいろな想像ができる、そういう余白をきちんと残していることが重要だと思います。それが自分にとっての唯一の解決方法で、それをあれこれ苦労しながらやっています。


「深田監督が、映画をとおして『これは伝えたい』ということはありますか。」


深田監督:
 あったりなかったり、ですね。自分なりに伝えたいことがあったとしても、作品の中でそれを直接的に描かない、あえて出さない、ということも多いです。


平田さん:
 二つあるのではないかと思います。一つは、私の場合でも、自分でもよく分からないことを描いてみる、ということはあるのですね。つくりながらこたえを探している。これは何なのだろう、と。この問題は世の中ではこう言われているけれども本質は何なのだろうと、考えるために作品をつくる、というところがあります。最初からこたえが分かっていたらそれは作品にはしないだろう、ということがありますね。

 もう一つは、例えば私の作品『ソウル市民』について言うと、これは1909年の日韓併合の前年の日本人家族の日常の生活が描かれています。29年前につくった作品なのですが、当時、この作品がどういうことなのか誰も理解できなかったのです。悪い軍人も政治家も出てこないからです。しかしそこには、植民地支配の構造が描かれているのです。植民地支配はこういう風に人間を歪める。人が人を支配するということはそれだけでこういう風に人を歪める。それが描かれているのです。

 私たち芸術家がやるべきことは、価値判断をすることではなく、描写をすることだと考えています。その切り口には当然その作家の主観が入るのですが、それをできるだけ補正してどれだけ提示できるか、ということだと思います。そして勇気を持って観客に判断をゆだねる。だから誤解も起こります。『ソウル市民』についても、植民地支配を賛美しているのではないか、という人もいるくらいです。悪い人が誰も登場しない作品だから。


『ソウル市民』(1989年初演)
1909年、夏。日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。

2018年11月、伊丹市立演劇ホールにて公演を行いました。
詳しくは、こちらをご覧ください。


深田監督:
 20世紀における最大の発見は、無意識の発見という、人間は自分のことが分かかっているようで分かっていないということが分かった、ということだと考えています。自分の心は自分が一番理解しているという考えは、実は間違っていて、自分自身も自分で意識できない無意識の影響を常に受けている。つまり、本音がどこにあるのか、自分が本音だと思っていることも本当に本音かどうか、分からない。それが、20世紀以降に起きた大きな価値観の変化だと思います。自分が映画をつくるときにも、そこに映画監督の本音だと分かるものがあるのは、どこか嘘くさい、と思ってしまうのです。ですから、いかに無意識の枠のようなものを残すか、それに苦労しながら作品をつくっています。


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「私は映画をつくっているのですが、日本映画界では『観客が育っていない』と感じています。どうしたら解決できると思いますか。」


深田監督:
 例えば、2015年時点のデータですが、日本の文化庁は約20億円を映画のために使っていて、経産省、総務省が毎年映画のために使う資金は多く見積もって約60億円ほどだと思います。フランスの映画行政を管轄する国立映画センターが毎年映画のために支出する資金は約800億円。隣国韓国の韓国映画振興委員会におけるそれは約400億円です。日本よりも桁違いに予算が多い。韓国においてはその配分もきめ細かく、「多様性映画」という必ずしも高い商業性を持ち得ないような作品にも支援が届くようになっています。一方、日本の映画の資金の集め方は非常に商業的です。日本の映画界は、良い映画をつくれば観る人がいるはず、という考え方で映画を作ってきましたが、観客を育てるということをしてきませんでした。私が青年団で衝撃的だったのは、観客を育てるということに取り組んでいるということ。それは私がいる映画界とは全く違うものです。映画教育、鑑賞教育も重要だと思います。例えば、フランスは学校で映画の授業があります。


平田さん:
 大阪大学は、4万人以上が所属する一つの大きなコミュニティです。しかし、大学の構内には劇場がない。映画館もない、美術館もない。これは世界的に見ると非常に特殊です。世界ランキングに入っている大学においては、そういったものは必須と考えられています。例えばアメリカは、大学が文化の拠点だという意識があります。大学がコンサートホールを経営し、地域の人たちもそこにやって来る。大学が病院を経営するのと同じように、文化施設を経営しているのです。


深田監督:
 実は、私の作品『淵に立つ』は、日本よりフランスのほうがお客さんが入っています。フランスに行くと地方の映画館は公共施設だったりします。税金で成り立っているのですね。フランスはパリに文化が集中していますが、人口が少ない地方でも映画館はあり、文化教育があります。フランスの地方でも、日本の無名の監督の映画が映画館にかかり、一定の人が見に来る環境にあるのです。


平田さん:
 フランスの場合は、週末に文化的なものに触れていないと月曜日に職場で話に入れない、という雰囲気があります。それは風土のようなものですね。日本では全国に図書館があり、本を読む権利が保障されていますが、フランスではそれと同じように映画、演劇を観る権利が保障されているのです。たとえ貧困層であっても、映画を観る権利があり、それは文化的な最低限度の権利として守られている、という前提の違いがあります。


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「日本の大学に通う一学生として、映画教育について伺いたいです。私は今回のような映画について授業を受けるのは初めてなのですが、映画教育によってどのような力が身につくのでしょうか。」


平田さん:
 国語の授業で小説を読んだでしょう?美術も音楽も学校の授業で習ったでしょう?それと同じです。なぜ演劇と映画は学校で学ばないのか、ということです。少なくとも演劇は、諸外国では高校の選択必修科目としてあります。韓国も数年前に全校で演劇を選択必修に入れましたし、台湾やシンガポールも同様の施策を持っています。しかし、日本にはない。それは世界の先進国ではめずらしいことです。


深田監督:
 映画に関していうと、フランスでは映画を授業として選択でき、映画の成績で大学に行ける、というような状況があります。映像については、より多くの国で教育として採択されています。

 これは二つ理由があると思います。一つは芸術文化の多様性に触れることのできる環境をつくる、ということ。どんな環境で育っていても、芸術文化に触れることができるようにしようということです。もう一つは、映像リテラシーの問題です。映像というものは百年ほどの歴史の浅い分野ですが、ものすごいスピードで各家庭に普及しました。今はいくらでも映像に触れることができますね。街にも映像があふれています。一方、映像が発明されてから半世紀以上は、つまりテレビが生まれるまでは、映像といえば映画だったのです。映画は映像の基礎教養にあたります。映像の文法の根っこは映画にあるのです。

 今は誰でもが映像を発信できる時代であり、映像におけるリテラシーの重要性が高まっています。国語を通して文章のリテラシーを学ぶのと同様に、映像のリテラシーを学ぶ必要があると思います。例えば、今この場所で映像を撮ったとして、どこにカメラを向けるかで、人が大勢いるように見せることもできれば、人が全くいないように見せることもできます。カメラをどこに向けるかで世界の切り取り方が変わってくるのです。あらゆる映像が嘘をつくと言うことができますが、それは、嘘をついている映像と嘘をついていない本当の映像が存在しているということではないのです。あらゆる映像にはつくり手の意図がある、ということなのです。それらを前提として映像文化に触れるべきだと思います。

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映画のみならず、文化や芸術に対する深田監督、平田教授の深い思いを直接聞くことのできる貴重な機会となりました。
COデザインセンターでは、今後もこのような機会を積極的につくっていきたいと考えています。


(書き手:森川優子 CO デザインセンター特任研究員)

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