大阪大学
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イベントレポート

2018年5月15日(火) 公開

「リテラシーD:映画で学ぶ社会の見方」一般公開 参加レポート
想田和弘監督の社会の見方:ドキュメンタリー映画『港町』をめぐって
COデザインセンター開講科目<リテラシー>

 近年、大学教育のなかで「社会課題に取り組もう」というものがトレンドのように増えてきています。ここには大阪大学も含まれています。私たちがこれをトレンドで済ますことなく、実質的かつ有効な仕方で自分たちの学びにするためには、どんな努力と工夫が必要なのでしょうか。それはまず、私たちが生きているこの「社会」とは何か、そこで「課題」と呼ばれているものは何なのかをしっかりとつかむことだと考えます。

 本企画はドキュメンタリーという活動からそのことを学ぼうというものです。ドキュメンタリーとはまさに「社会」とその「課題」に向き合うことを続けてきた営みだからです。この営みには膨大な蓄積があり、私たちにとって学ぶべきことがたくさんあります。今回はドキュメンタリー作家として第一線で活躍されている想田和弘監督をお招きし、想田監督の最新作『港町』を軸にして、社会の見方や向き合い方についてお話を伺いたいと思います。

本企画は、COデザインセンターが「リテラシー」として提供する授業「リテラシーD:映画で学ぶ社会の見方」の一般公開として行われました。


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最初に、この授業を担当する山森先生より一般参加の方々に向けて、COデザインセンターの簡単な紹介と、本授業の趣旨説明がありました。山森先生からは、「この授業を受講する学生たちに、想田監督に積極的に質問してほしい」と話がありました。

そして、想田監督が登場。想田監督が「なんでもこたえますよ。」とおっしゃって、授業がはじまりました。

ここでは、想田監督のお話の一部をご紹介したいと思います。

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「想田監督がドキュメンタリー映画を制作するとき、撮っているときに面白いことが起こった場面をつかうのか、撮りためた映像をみていく中で面白いことが起こっているのを見つけるのか、どちらですか?」

両方の場合がありますね。撮りためた映像を後から見て面白いと思うことと、これは面白いと思いながら撮ることのどちらもあります。

僕は、自分の撮る映画を「観察映画」と呼んでいます。「観察映画」というのは、「よく見る。よく聞く」ということだと考えています。事前にリサーチをしないで、いきあたりばったりカメラをまわすのが、僕のやり方です。目の前の現実を「よく見て、よく聞く」。そこで発見したことを映画にしていく。そうやって撮影していくと、文句なしに面白い、と思うこともある。撮りながら興奮するようなこともあります。そういう感覚は、だいたい間違っていないことが多いですね。編集のときにも、ここはやっぱり面白いな、と思います。

(『港町』のなかでも、撮りながら「背筋に何かが走る」感覚があった場面があったとお話しくださいました。ぜひ映画『港町』本編をご覧ください。)

編集中によく見ると面白い、ということもよくあります。カメラをまわしていると、ピントや絞りやまわりの環境など、いろいろなことに気を遣っているので、見落とすことが多いのです。編集のときに映像を改めて見て、初めて気がつくこともあります。

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(想田監督は、撮影前にテーマを事前には設定しないそうです。撮っていくうちにキーワードが浮かび上がってくる、とお話しくださいました。)

『港町』にもいろいろなキーワードがあるが、でもそれは結果的に出てきたもの。その「順番」が大事だ、と僕は思っています。テレビドキュメンタリーをつくっていた時には、先にキーワードを決めて、そこから撮影場所を決め、出演交渉に行ったりしましたが、これはあまりよくないと思っています。テーマが先に決まっていると、それに合わないものが削ぎ落とされてしまうということもありますね。僕は、面白いと思っているものを撮っていって、そこから何が見えるのかな、と考えて、映画をつくっていきます。

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「一般的なドキュメンタリーは、撮影する人が入らないようにすることが多いと思うのですが、想田監督の映画には撮影者が入っています。想田監督が撮影の際に、撮影される方とコミュニケーションをする上で、何か意識していることがありますか?」

確かに、ドキュメンタリーでは伝統的に、撮影者の存在者を消すのが一般的だと思います。それは、ドキュメンタリーが報道の延長線上のものとして捉えられてきたからではないか、と考えています。つまり、ドキュメンタリーは客観的事実を伝えるものだ、という考え方ですね。しかし僕は、ドキュメンタリーと報道は違うものだと思っています。僕の映画は、客観的真実はわからない、ということを前提としています。

僕も、『選挙』という最初の作品では、どうしたら自分の存在を消すことができるかを考えてつくっていました。しかし、『精神』をつくったとき、患者さんたちが僕を放っておかなかったのです。カメラで撮っていると、僕が質問をされたり、僕に話しかけたりしてくる。それらの場面は、撮っているときは使えないかなと思っていたけれど、編集していると、実はこの場面が一番面白いのですね。カメラに向かって何かを言っていること自体が、一番面白かったりするのです。その、一番面白いところを、僕の方針のせいで使えないというのであれば、僕の方針は一体何なのか、と。僕の方針が間違っているのではないか、と。

そこで、撮影というものは、撮影している自分も含めた世界の観察だ、と理論をかえたのです。僕らがそこにいることによって世界はかわる。かわった世界しか僕は撮れない。僕は今では、存在を消そうとしません。でも、だからと言ってどういう心持ちかと言うと、根掘り葉掘りインタビューのように聞いてしまって、ハンターのように欲しいものを取りにいくというのは好きではない。被写体の人たちと会話をする。それを心がけています。何か聞かれたら答えるし、こちらがどうしても聞きたいことがあれば聞くし、何もなければ黙っています。

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(映画『港町』の中では、想田監督がその場にいなかったら起きなかったことも、実際に起きています。「そのシーンがこの映画の核になるようなシーンになった」とおっしゃっていました。)

ドキュメンタリーとフィクションはグラデーションになっていると思います。カメラをまわした瞬間に、その場面をフレームで切り取るということは、そこに必ず、一種のフィクション性が加わる。じゃあ完全にフィクションなのかというとそうではなく、撮ったときの感情やそこで起こったことは本当のこと。場面によってはフィクションに近くなり、場面によっては非常にドキュメンタリーに近くなる。ドキュメンタリーとフィクションという両端の間のどこかにその場面があり、場面がかわるごとに往復運動をしている、ということなのです。フィクションについてもそうなのですよ。書かれたセリフを俳優が言っていたとしても、それはそこにいる俳優のドキュメンタリーだととらえることもできます。これはドキュメンタリーだ、これはフィクションだ、と、はっきり分けられるものではない。その曖昧性が面白いと思います。人間が表現するということはそういうことなのでしょう。

つくり手の体験談を観客と共有するのがドキュメンタリーだ、と僕は言っています。そこにはフィクションが入り込むけれども、決して嘘ではない。その曖昧なところを目指しています。

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人間は、曖昧なものをすごく嫌い、分からないものを怖がる傾向があります。それは僕自身の中にもある。分からないものを無理やり分けようとする。境界線上にいる人たちに対して、味方なのか敵なのか分けようとする、潔癖症的なところが私たちの文化にもあります。それは、今、世界中で吹き出している問題でもあります。でも実は、味方も敵も無く、地続きなのだよ、と思うのです。曖昧なものを曖昧なまま受け入れていくことができるか、ということが私たちの挑戦です。僕は、グレーの階調で描きたいと思っています。白黒ではなく。そこにどうやって踏みとどまるか。

そこで大切なのは「観察」だと思います。「よく見る、よく聞く」。そうすると、微妙な濃淡がわかるのです。黒だと思っていたことが実はグレーだとか、白だと思っていたものが実は黒がまざっているということがわかる。そして、細かく見ていくと、そんなにみんな違わないのですよね。

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想田監督がなぜ映画に関わることになったのか、そのいきさつを学生たちに向かってお話しくださる場面もありました。学生たちにとっては、まさに「よく聞く」機会となったのではないでしょうか。

(書き手:森川優子 CO デザインセンター特任研究員)

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